学生生活

「トンネル」を進み続ける

本郷 直人
社会学研究科 教育学専攻
修士課程2年(2023年度現在)

私は、日本教育思想史を専門として、明治末期から昭和戦前期にかけての教育思想と哲学者西田幾多郎(1870-1945)の影響関係について研究しています。
私が大学院に進学する決意をした際、内面から湧き出る「問い」に対し、自分なりの「答え」を探し続けることへの強い衝動が存在していたように思えます。大学院では、このような「問い」を絶えず反省する環境を提供してくれます。特に教育学専攻では哲学、心理学、歴史学、比較教育学など多岐にわたる領域が存在し、多様な視点からの議論を通じて、様々な刺激を受けることができます。このような「陶冶」の経験を通じて、「問い」を抱くことの価値を再確認し、「答え」を追求し続けることができる場所、それこそが大学院だと私は考えます。大学院生活は試行錯誤の連続で、まるで暗闇の「トンネル」を進み続けるかのように、進むべき方向も、到着点も見通すことができないなかで「答え」を探し求めます。しかし、大学院での多様な交流を通じて再認識した、内面から湧き出る「問い」の価値を信じることで、私は「トンネル」を一歩ずつ進み続けることができたと思います。大学院に進学した皆様と「問い」をめぐって議論できる機会を楽しみにしております。

探求の日々

新井 真帆
社会学研究科 社会学専攻
博士課程1年(2023年度現在)

私は学部生の頃より、「共生」について関心をもち続けてきました。修士修了後には、民間企業に就職し、外国にルーツをもつ人や障害をもつ人を含んだ様々な人々と働く機会をもちました。その中で、実社会において「共生」を目指すには様々な課題があることを身に染みて感じ、そしてその課題について探求したいと考え、博士課程への進学を決意しました。現在は、博士課程に在学しながら公益財団法人で働いており、研究・実践双方の視点から、「共生のありかた」について探求する日々を過ごしています。将来は、博士課程と社会人、両方の経験を活かし、様々なルーツをもつ人々の橋渡しをする役割を果たすことができればと考えています。
「大学院とはどのような場か?」という質問には、「じっくりと考え、議論ができる場である」と答えます。自身の研究についてじっくりと考え、加えて授業等において他の履修生や先生方と議論を重ね、自分にはなかった視点や考え方を得ることができるのです。「じっくりと考え、議論ができる場」というのは、今日の社会の中では貴重な場なのではないでしょうか。大学院進学を検討されている方にも、ぜひこの場で探求していただきたいと思います。

「身体」と「脳」から「心」の謎を読み解く

櫻木 麻衣
社会学研究科 心理学専攻
修士課程2年(2023年度現在)

私は、認知神経科学研究室で、人間の身体反応と思考状態の遷移との関係性について研究しています。私たち人間の「心」は、(少なくとも起きている間は)常に何かを感じ、考えています。その間も、私たちの「身体」、目や耳、手や足、そして内臓は活動を続けており、これらのはたらきを制御するのが「脳」です。この三者の関係性から、まだ明らかになっていない、人間の認知システムについて解明しようというのが、私の、そして私の所属する研究室の、最大の目標です。
「なぜ大学院に進学したの?」「どうして研究をしているの?」とよく聞かれます。私にとっての「研究」の最大の魅力は、自身が抱くまだどこにも答えのない疑問を、自身の手で解決するチャンスが与えられることです。そして、「大学院」で研究をしていると、知識・経験の豊富な先生方や先輩方、そして、様々な資料や実験機材という、心強すぎる味方とともに、このチャンスを追求することができます。迷ったり、失敗したりすることもありますが、自分の「なんで?」の答えを少しずつ見つけながら、刺激的な日々を送っています。
大学院への進学を考えている方には、どんなに素朴でも、たとえ間違っていてもいいので、自分で何かを考え、発信することをおすすめします。その些細な疑問やアイディアが、新たな研究への第一歩となるでしょう。

自由に「悩める」場

佐藤 雄一郎
社会学研究科 教育学専攻
博士課程3年(2023年度現在)

私の大学院生活の大半は「悩むこと」で過ぎています。例えば、1日中PCの前で呻き、頭を抱え、壁を見つめ、意を決して文章を書き、そうして書き上げた文章を次の日に全て書き直すといった具合です。
こうした「決めかねたり、思いあぐねたり」ということが頻繁にあるのは、正解がない問いに答えようとしているためです。例えば私の場合は、「よい授業を支える教師の専門的力量とはなにか」について考えています。
この「試行錯誤」の過程はあまり楽しいものではありません。しかし、自分が決めたテーマについて、論を吟味し、データや資料を精査し、自分なりの結論を立て、それを適切な言葉や数字で表現するという活動にはよろこびがあります。例えば、山登りの苦労とよろこびに似ているかもしれません。
こういった正解がない問いに数年間にわたって「正対」する上で、資料・情報、指導教授、ともに学ぶ仲間といった環境を提供してくれるのが大学です。特に教育学専攻では多様な領域の専門家(哲学、心理学、歴史学、比較教育学等)が在籍しているため、「そもそもよい授業とはなにか」といった根本的な原理から見直すきっかけをもらえるのが特徴だと思います。
入学を検討されている方には、自由に悩める場であることをお伝えしたいです。自由を認める環境がある一方、その厳しさもあります。ぜひ自身の関心を「追求」してみてください。

私の研究にとっての快適な場

ゼルマー, コナー D.
社会学研究科 社会学専攻
修士課程2年(2022年度現在)

私は慶應義塾大学の評判や設備について何も知らずに入学しました。唯一知っていたのは慶應義塾大学大学院社会学研究科の先生が、私の興味につながる研究をしているということだけで、それだけの理由で私は慶應で研究することを決めたのでした。私の研究関心は日本人女性および彼女たちの妻、母親、労働者としての経験にありました。社会学研究科に入学して、先生が研究を指導してくれるだけでなく、その研究に精通していたことは、私にとって本当に幸運なことでした。私の指導教員の先生は、私が行う研究の方法と目標の基盤となる重要な研究を紹介してくれました。現在私は、日本の母親の実態を明らかにするために、参与観察とインタビューに基づく質的調査を行っています。具体的には、日本の母親と父親がどのように性別の役割を認識し、その役割が彼らの行動にどのような影響を与えているかを調査しています。
日本での留学生活は得てして大変です。言葉、文化、そして物事の進め方が、私の出身国とは信じられないほど違います。しかし、このような困難にもかかわらず、先生は私の日本語を辛抱強く理解し、社会的に不適切な振る舞いを理解し、授業での議論において私の視点を大切にしてくれています。指導教員や他の先生方のサポートがなければ、私の日本での研究はうまくいかなかったでしょう。慶應義塾大学で、私の研究のために協力してくれる人たちに囲まれながら、研究の場を見つけることができたのは幸運だったと思っています。

知識の最前線に立つという楽しみ

鈴木 結子
社会学研究科 心理学専攻
博士課程2年(2022年度現在)

私は動物心理学研究室でカラスの音声コミュニケーションの研究をしています。大学院進学を決めたのは「なんだか面白そう」というふんわりした理由でした。大学院に進学して三年ですが、今思うとその直感は間違ってもいましたが、正しくもあったと感じます。先生の授業を受けることは少なくなりますが、疑問を持って自ら聞きに行けば豊富な経験を語ってもらえます。後輩の相談には責任を持って答えねばなりませんが、先輩は頼れる存在です。研究に休みはありませんが、自分の決断で進めることができます。
大学院へ進学したいと思っている方におすすめしたいのは、冷静に自分のペースを守ることです。大学を卒業してから大学院への進学を決める人は決して多くはありません。ほとんどの大学院生は親戚や友達と少し違った人生を歩むことになると思います。私も学部時代の同期と比較して焦りを感じることもよくありますが、「すぐには結果が出なくても、研究は楽しい!」と思い込める力が役に立っています。
大学院生活で私が最もわくわくするのは、たくさんの知識を集めてもなお、「人類の誰も知らないこと」がその先にあると分かった時です。正しい答えがすでに決まっている問題を解いていた「勉強」を超えて、誰も知らない世界の仕組みを(ほんの少しだけでも)解き明かせるのが、研究の楽しさだと思います。

学問の制限を超えて、新しい社会学へ

プルサコワ, アリナ
社会学研究科 社会学専攻
博士課程3年(2021年度現在)

私は学部時代から社会学を専攻しており、修士課程から慶應義塾大学の社会学研究科に進学を決めました。初めて本格的に学問に触れたときから、その奥深さと面白さを感じながらも、限界と制限も痛感しました。「多様性を持つ学問とは何か」という疑問を念頭に置きながら、修士課程から新しい学問のあり方の実現に挑戦しているアートベース・リサーチの研究を始めました。これはアカデミックな世界で主流となっている文字媒体の制限を超えて、リサーチの結果はもちろん、リサーチのすべての過程においてアートを用いることを試みている研究スタイルであります。写真、映像、演劇、パフォーマンス、サウンドやインスタレーション、あるいは文字であったとしても小説や詩など、従来の学問において研究対象にしかなり得なかったものは研究そのものになり得ます。理性よりも感情に訴えかけるエモーショナルな社会学の到来です。その先にある未来を想像して、諦めず自分の研究を慶應義塾大学の社会学研究科で続けるつもりであります。

探究心を温かく迎えてくれる学び舎

末廣 彬
社会学研究科 教育学専攻
修士課程2年(2021年度現在)

私が大学院に進学した一番の動機は、教育について学問として、より深く考えたいと思ったからです。そう考えた私を懐深く迎え入れてくれたのが、慶應の社会学研究科教育学専攻でした。
私自身、慶應には3度お世話になっています。1度目は法学部法律学科を卒業し、そのまま会社勤務を始めました。その後、大学時代の趣味が高じてプロの音楽家を目指し、音楽を教えるという行為から人に教えることに興味を持って、教職特別課程に入学したのが2度目でした。そして、社会科の教員となって働き始め、そこで生じた「よい教育とは何か」という問いをじっくりと考えてみたいという希望から、退職して文学部の教育学専攻に学士入学したのが3度目です。卒業に当たっては教職への復帰も考えましたが、大学院に進むことで得られるより専門的な学び、特に教育の本質を探究するという慶應の教育学専攻の魅力は非常に大きく、進学を選択しました。現在は、高度に専門的な研究に四苦八苦しながらも、充実した日々を送ることが出来ています。
振り返ってみると、学びたいと思ったときにそれを温かく迎え入れ、受け入れてくれる環境が慶應にはあると感じています。大学院では、そこに一際強い探究心が求められると思います。学びたいという気持ちが強くわいてきた人は、是非、慶應でともに学びましょう。

学術大学院という選択

菊池 友也
社会学研究科 教育学専攻 2021年修了
東京都公立小学校 主任教諭

公立小学校に勤めて15年目の年、私は現職教員枠で慶應義塾大学大学院社会学研究科を受験し、進学しました。そのとき同僚から、「なぜ、教職大学院ではなく学術大学院である慶應義塾を選んだのか」と不思議そうに尋ねられました。たしかに、教職大学院のほうが教育現場の実践にすぐ役立つ知識やテクニックを学べるイメージがあります。スクールリーダーとして学校組織運営の進め方について具体的に教わる機会も多いのでキャリアアップにつながる、という評判も聞きました。しかし私は、研究の方法をしっかり学びたいという気持ちのほうが強かったので、慶應義塾大学の社会学研究科に進学することを決めました。
社会学研究科には、教育学・社会学・心理学それぞれの分野の専門家が揃っています。在学中、各分野のゼミに参加しましたが、どのゼミも学校現場にいたのでは決して味わえない刺激的な場でした。教育学専攻に所属しながら、社会学と心理学の先生方からも学ぶことができるのは慶應義塾の社会学研究科ならではの、他大学にはない特色の一つだと思います。
また、大学院に行くからにはぜひ修士論文を書き上げたいという想いも、私が学術大学院を選択した大きな理由でした。私は「学級通信が保護者と学校の関係に及ぼす影響」について修士論文を書きましたが、そのために質問紙調査の方法・分析を一から学び直しました。苦労もありましたが、現職教員としてのこれまでの経験から感じてきたことを学術的に検証していく過程はとても楽しいものでした。生涯忘れることのない時間です。

現職教員として入学して

井上 俊恵
社会学研究科 教育学専攻 2008年修了
群馬県立高校 教諭

教員として働き出してちょうど10年経ったとき、私は自分の立ち位置が分からなくなっていました。他者から職業を聞かれれば、県立高校の英語教員となるのでしょうし、その仕事の価値を問われれば、生徒の人格形成と彼らの望む進路実現に寄与できることとなるのでしょう。しかし教科書や指導要領に書かれていること、学校文化として当たり前のように生徒に伝えていることに、果ては自分が身を置く学校そのものに私は疑問をもつようになりました。同時に、社会で成人として生活する中で自分自身に向き合わざるを得ない場面も多々あり、自分自身のアイデンティティも揺らいでいました。
そこでそのモヤモヤに向き合うために選んだのが慶應の社会学研究科でした。なぜここでなければいけなかったのか。休職制度を利用しての制限・条件に見合っていたことはもちろんですが、何より教育を社会学の中に位置づけているおもしろさがありました。
当初私が立てた問いは、「ジェンダーと教育」というものでした。しかし、社会学研究科という大きな枠組みの中で多角的に自分の関心に向き合う中で、そして卓越した教授陣と仲間に揉まれ追い込まれる中で、最終的には「批判的教育学の見地からの教員と生徒の関係性」について論文を書くことになりました。入口の関心と出口の論文は、私の中ではしっかり繋がっています。性の枠組みの捉え方やそれに付随する価値を他者に教えるとき、仮に教える側がいかに「公正」で「全う」な理論に辿り着いたとしても、抑圧者(教員)vs.非抑圧者(生徒)という関係性の中でその伝達が行われるとき、果たしてそれはどんな意味をもつのか。伝達される側が批判的に知識に対峙できること、さらには伝達する側も批判的に自らの知を問い続けることの重要性をHenry A. Girouxの文献を中心に考えたつもりです。
現場に戻るに当たって、私のモヤモヤはなくなるどころかより一層大きくなりました。もちろん答えなんて出ません。しかし、慶應で培った「物事を考えるスキル」、「教育を問い続ける姿勢」がある限り、もうこのモヤモヤは嫌ではないのです。

三田で学ぶ意義

大西 慎二
社会学研究科 教育学専攻 2015年修了
香川県公立小学校 教諭

私は大学院修学休業制度を用いて一年目は東京で修了単位を修得し、二年目は土曜日に設定していただいたゼミに出席するために金曜日の仕事の後に東京へ向かっていました。
現職教員として入学しますが、ここでは自分の研究を学問として科学的に実証する一人の研究者として扱われます。その心地よさこそが、まさに私が心底求めていた環境でした。
従って、自分の研究に近い海外の論文を全文和訳して発表し、その内容について先生方や院生と討議する授業にも臨むなど、仲間と同様のカリキュラムで単位を修得しながら、自らの研究を進めていきます。教育測定方法や心理学統計など自分に足りない能力も学部の授業を受けて補える点も魅力でしたし、学位論文を執筆する際には先生方のみならず、一回り年下の博士課程の友人にも大変お世話になりました。
また、研究とは別に首都圏や東北の諸学校の授業参観にも30校余り訪れたり、単位交換制度を利用して毎週月曜日は早稲田へ赴いたり教育界での人脈が広がったことや、福澤諭吉記念文明塾に通い、民間企業の社会人と活動できたことも一生の財産となりました。このように三田には自由な学びと人と人の交流が満ち溢れています。
学校現場に戻った今では、教師としての経験則だけではなく、蓄積された研究者の知を活用すべく学術論文にも当たりながら「生き物である教育」にアプローチできるようになってきた気がしています。